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ハゲマス会 第十七回狂言の会 [伝統芸能]

2015年1月25日(日) 川崎市麻生文化センター 14:00開演

昨年は旅と重なって行けなかったハゲマス会、2年ぶりに参りました。

今回は、どれも観たことのある曲ばかりで、肩の力を抜いて拝見しました。山本家の安定した芸を楽しみ、しかも最後に、東次郎師の新作小舞を拝見できて、大満足でした。


狂言 『蝸牛(かぎゅう)

シテ(山伏)/山本則俊
アド(主)/若松隆
アド(太郎冠者)/山本則孝


【あらすじ】

家の主人が、太郎冠者を呼びつけ、あることを命じます。それは、大伯父の長寿を願って蝸牛(カタツムリ)を取ってこいというもの。当時、カタツムリを食べると長生きするという言い伝えがあったそうです。しかし、太郎冠者はカタツムリを知りません。主人によると、カタツムリは「土から生まれて藪に住んでいる、頭が黒い、腰に貝を着けている、ときどき角を出す、年月を経たものは人くらいの大きさになる」とのこと。主人の説明を反芻しながら、太郎冠者は出かけていきます。

大きな藪に入って行った太郎冠者。そこで、大きなカタツムリを見つけます。ところがこれは、修行を終えて戻る途中の山伏が、休憩に寝込んでいたものでした。太郎冠者に「カタツムリか」と尋ねられた山伏、いたずら心を起こしてそうだと答えます。

「雨も風も吹かぬに、出ざ釜打ち割ろう」と太郎冠者の囃(はやし)に乗って、「でんでんむしむし、でんでんむしむし」と音頭を取って舞う山伏。すっかり楽しくなってしまった2人のもとに、主人がやってくるのですが…。


【カンゲキレポ】

公演プログラムによりますと、日本でも古くはカタツムリを食用にしていたそうです。黒焼きにすると喘息の薬になったとか。

公演後のおなじみとなった「お話」にて東次郎師が仰っていたのですが、『蝸牛』も次の『泣尼』も、「ちょっと余計な事」で起きてしまった出来事を描いています。

この曲も、主人がカタツムリの説明をした時、最後の最後に「長く年月を生きたものは人間くらいの大きさになる」と言ってしまった事から、太郎冠者は山伏を「カタツムリ」だと判断してしまったわけです。もしかしたら、主人もカタツムリを実際に見たことがなくて、人から伝え聞いたことを受け売りしてしまったのかも。

太郎冠者がなぜ山伏を「カタツムリ」だと断定したかと申しますと…山伏は頭に頭襟(ときん)という黒い小さな帽子をかぶり、腰にはホラ貝を着けていたから。「角を出す」のも、首から下げているポンポンのような結袈裟(ゆいげさ)を肩越しに出して見せられて、太郎冠者はすっかり山伏のことを「カタツムリ」だと思い込んでしまうのです。

カタツムリだと言い張って太郎冠者をからかう山伏の則俊師、とっても楽しそうでした♪

太郎冠者の則孝は、生真面目な召使という感じがよく出ていました。肩衣は、紺鼠(こんねず)かな?に、雪の結晶を意匠にした六花(りっか)の紋様で、寒さの厳しいこの季節ならではのコーディネートだと感じました。

山伏に乗せられて、「雨も風も吹かぬに…」の謡をつけながら、山伏と楽しく舞い始めます。片足で跳びはねながら音頭を取り、舞うのですが、則俊師も則孝も、さすがの安定感!身体の軸がぶれたりゆがんだりすることがなく、上体が常に真っ直ぐなのです。この囃と音頭を聞いて、美しい立ち姿を見るだけで、「ああ、山本家だー!」と感無量になるわたくし(笑)。

主人の若松も、声がよく通って堅実な出来。この主人は太郎冠者を探しに来て、「あれは山伏だ」と諭すのですが、最後には山伏の術中にはまって(?)一緒に「でんでんむしむし♪」と音頭を取り始めるのですよ~。

山伏にすっかり乗せられてしまって、最後は主人も太郎冠者も楽しく音頭をとりながら去っていきます。陽気な囃と音頭に、揺るぎない山本の芸をしっかり楽しむことができました。


狂言 『泣尼(なきあま)

シテ(住持)/山本則秀
アド(施主)/山本凛太郎
アド(尼)/山本則俊


【あらすじ】

あるところに住んでいる男が、親の三回忌だと言う事で僧に説法をお願いしようと思いつきます。説法を頼まれた僧(住持)は、お布施をもらえるとあって喜んで引き受けるのですが、実は説法をしたことがありません。そこで、少しでも自分の説教が有り難く聞こえるようにと、近所の尼に「泣き役」を頼みます。

さて、施主のところに赴き、説法を始める尼。ところが尼は、肝心のところで泣くどころか、うたたねを始める始末。泣いてもらいたい僧はさかんに合図を送りますが届かず、ついには床にごろんと横になって熟睡してしまう始末。何とか説法は終わりますが、尼はなんとお布施をよこせとしつこく要求してきて…。


【カンゲキレポ】

普段、杉並能楽堂で山本家の舞台を拝見する時は脇正面に座ることが多いわたくし(←理由:肩衣のデザインを愛でるため)。しかし今回はホール公演ということもあり、正面から見たのですが、やはり正面からでないと伝わらない事ってあるんだなぁ~と当たり前のことを実感した曲でした。

この曲も、「ちょっと余計な事」をしてしまったばかりに起きてしまうお話。説法が初めてとは言え、それなりの教養を身につけている僧です。自分の引き出しから誠実にお話をすればうまく出来たのに、いっそう有り難く思ってもらえるような演出をしようと思ってしまったばかりに…。

もうこの曲のツボは、とにかく尼!!則俊師が尼を演じたのですが、これがまた、素晴らしい!先ほど『蝸牛』で見せた威厳がありつつも軽妙なところのある山伏とは違って、とにかくたたずまいから立ち居ふるまいからしてキュート!失礼ながら、こんなおばあちゃん、いるいる!って思っちゃいました(笑)。顔につけている面も、何と言うか、

僧と一緒に施主のもとへやってきた尼、周囲の人に挨拶しながら座って、最初は説法を聞いているのですが、だんだん退屈し始めて、お庭の方をよそ見したり、あくびをしたり、そのうち身体が傾いていき…。僧に合図されてハッと起きるものの、またうとうと…という繰り返しがだんだんエスカレートしていくのですが…。

その様子がね、本当にちょっとした首の傾げ方や扇の使い方で、きちんと伝わってくるのですよ!ちゃんとね、首を回したその先に、「あ、お庭に蝶々が飛んでる…」とか思ってしまっている尼の様子が、簡単に想像できちゃうのですよ。というか、尼がふっと見たその先に、うららかな日差しと、蝶がひらひら飛んでいる情景が、ちゃんと想像できるのです。

それは、やはり則俊師がしぐさや科白だけをなぞって演じているのではなくて、きちんと「心」で演じているからでしょうね。舞台に生きる者として当然の姿勢なのですが、やはり、一瞬のしぐさでそこまで情景を想像させることが出来るのは、演じる者の「心」次第だと思うのです。

僧を演じた則秀は、落ち着いた出来。一時期に比べて、声が安定してきたように感じます。まっすぐ届く声に、まろやかさが加わったように感じます。説教を続けながらも、思い通りの働きをしてくれない尼の様子に焦る様子が、不憫でした(笑)。

施主を演じた凛太郎。今年21歳というのに、すでに貫禄充分!思わず、わが身を省みてしまいます…(笑)。長袴の扱いにちょっともたついていたかな?と思いましたが(なんか、普段になくひょこひょこっと歩いている瞬間があって、でもそれが可愛かったんですけどw)、声があれだけ安定していれば充分です。

装束のコーディネートが、どことなく春らしい感じだったのが印象的でした。住持はグレーがかったブルーの地で、裏地がこれまたグレーがかった桃色というか杏色で、ふとした動きでその柔らかくて春らしい杏色がとても鮮やかに目に映えます。

尼は、クリーム(菜の花?)色に茶色の格子の入った小袖に、薄葡萄色の頭巾という、何とも春らしい配色。数珠は珠が天色で、房が藤紫という、モダンなもの。女性らしいな~と思いました。

施主は、若い凛太郎に合わせたのか、グレー・若草・クリーム色の段熨斗目に、濃い緑の裃。よく似合っていました。

結局、期待通りの働きをしなかった尼に対して、僧はお布施を分けることを拒否します。しかし尼は僧を追っていくという…。僧の気持ちもわかるけど、尼さんもキュートだったしなぁ。どっちもどっちだなぁ~(笑)。


狂言 『米市(よねいち)

シテ(男)/山本則重
アド(有徳人)/山本東次郎
アド(通行人)/山本泰太郎、山本凛太郎、若松隆、山本修三郎、山本則孝


【あらすじ】

貧しい生活をしている男は、年の暮れにはお世話になっているお金持ち(有徳人)からお米と衣類を頂戴するのが習慣になっていました。ところが今年は、年末になっても有徳人から何の便りもありません。そうこうしているうちに大晦日になってしまい、男は有徳人のもとを訪ね、お米をもらえないかと頼みます。今年は行き違いで男に便りが届かず、蔵はすでに閉めてしまったとのでしたが、何とか頼み込み、外に出ていた米を分けてもらいます。そこで引き下がらずにさらに交渉して、奥方の古着である小袖も手に入れました。

有徳人に手伝ってもらって米俵を背負い、さらにその上に小袖を被せるようにして帰ろうとする男、自分の姿が不審に思われはしないかと心配になります。そこで、有徳人に相談したところ、「これは俵藤太(たわらのとうた)の娘、米市御寮人のお里帰りである」と応えればよい、と智恵を授かります。

いただいたものを嬉しそうに背負って帰る男。その道中で出会った数人の若者たちに声をかけられ、男は有徳人に教えられた通り「米市御寮人のお里帰りである」と答えます。その返事を聞いた若者たち、美人と噂に名高い米市御寮人ならば、杯を受けたいと言いだして…。


【カンゲキレポ】

師走の暮れのせわしなさ、少しのほろ苦さ、来る年へ仄かな期待感を感じさせる曲です。「俵」や「米市」など、豊かさの象徴である「米」がキーワードになっています。

則重の男は、きっちりとした出来。東次郎演じる有徳人に頼りきりだったのが、若者たちとの一件をきっかけに新しい一歩を踏み出すまでの流れが自然でした。

有徳人のところで米俵をもらったり小袖をもらう時は、「どうしたら良いでしょう、こうするのは如何でしょう」と事あるごとに有徳人を頼ります。米俵も1人では背負う事が出来ず、有徳人に手伝ってもらって背負います。

けれど、帰りの道中で若者たちに絡まれ、米俵と古着だと見破られ、笑われて去った後、男は「それじゃによってな、これはわしにとっては大切な年取り物じゃ」と言い、それまで有徳人に手伝ってもらわないと背負えなかった米俵を、たった1人でぐっと抱え上げて去っていきます。

東次郎師はこの時の男の気持ちを「スポンサー(有徳人)からの決別を意味している。そして去っていく男の背中に、新しい年が見えてくる」と解説されていて、ハッとしました。

私は、有徳人からの「自立」を決意したのかなぁ~とぼんやり思っていたのですが、「決別」という、もっと厳しい決意が込められていたのですね…。

この曲も、登場人物のコーディネートが洒落ていて、眼福でした~。

則重は、海に碇を描いたダイナミックで鮮やかな肩衣。有徳人からもらう小袖は、山吹色の地に草花が色とりどりに縫い込まれている意匠で、とてもとても素敵でした~!

通行人(若者)を演じた5名は、色とりどりの裃。東次郎師によると、「狂言では上下の段熨斗目を着るのが普通だが、若者たちできらびやかさ、洒落た感じを出すために、若者たちは段が斜めになっている熨斗目を着用させた」とのこと。装束だけで、こういう狙いやコンセプトがあるのですね!あらためて勉強になりました…。


小舞 『雪逍遥(ゆきしょうよう)

山本東次郎師による新作小舞。昨年10月に国立能楽堂で「雪」をテーマにした会があり、「雪をテーマにした小舞を…」とお願いがあったそうなのですが、狂言では、雪をあつかった小舞が1曲しかなく、しかも全体で1分半しかないそうで、せっかくなので、とご自身で創作されたのだそうです。


【詞章のあらすじ】

雪が降り積もった早朝、弓矢を持って猟師が山へと狩りに出かけます。獲物の雉を見つけ弓をつがえて狙いますが、あと一歩のところで雪に足を取られてしまい、雉は空の彼方へと逃げてしまいます。

雉を呆然を見送る猟師ですが、「獲物は捕えられなかったけれども、仏教で最も戒められる殺生はしなかったのだから」と考えを改め、弓矢を置いて、ひとり雪見へと歩き出します。

猿が飛び移ったために枝の雪が落ち、わずかに緑が見えた松の枝、冬特有の凛冽な青空、その西の方角にうっすらと見える昼間の月。聖徳太子にゆかりがあると言われる斑鳩(いかる)の鳥の声に、太子が説いたと言われる和の尊さを思い、百舌鳥の速贄(はやにえ)や雪の狭間を流れていく水に春の到来が遠くないことに感じて心が浮き立ち…猟師は銀世界の中を遊びます。

やがて、日が暮れ始めた山を下りて、家路を急ぐ猟師。こうして、冬の一日が終わっていくのでした。


【カンゲキレポ】

感動のあまり、言葉がありません。この小舞を拝見できて、本当に良かった。心の底からそう思いました。

最初は弓と矢を持って舞い始め、しばらくして弓矢を置き、扇を使って舞った後、弓矢を再び取って退場していく姿。わずか15分の中に、猟師の1日、移り変わる心のありよう、そしてその生き様を見たような気がします。

東次郎師の作詞された詞章はわかりやすく、ひとつひとつの言葉が美しく洗練されていて、それでいて透明感があります。雪の日の情景が頭の中ですぐに思い浮かべることができます。

詞章には、「心外無法 満目青山(しんがいむほう まんもくせいざん)」という禅語が登場します。

これは、「心の外に法は無い。これが楽しいとか苦しいとか、そういうルールを作っているのはすべて自分の心なのだ。目の前に見える山が鮮やかに美しく感じられるのは、見る人の心が澄み渡っているからで、どんなに美しい景色があっても心が曇っていたら、それを感じることはできない」という意味だそうです。

東次郎師の舞を一心に見つめる中で、いつしか自分も、想像の中の雪山を歩き、冬の景色を眺め、冬の青空を見上げているような感覚にとらわれていきました。

何と言うのでしょう、東次郎師の舞を通じて、自らも冬の雪山を歩き、雉を狙って弓をつがえ、飛び去る雉を見送り、雪の山道を遊びながら目に入ってくる景色をひとつひとつじっくりと楽しみ、夕陽を背中に山を下りていくような感覚になったのです。まるで、猟師の1日を追体験しているようでした。

こういう経験、これまでの人生で1度はありませんか?あ、追体験うんぬんではなくて…(^_^;)。

仕事やプライベートに限らず、ずっとがむしゃらに走ってきて、ある日、何かがきっかけでふっと集中の糸が切れてしまったり、何から手をつけて良いのか分からないくらいに落ち込むようなこと。そんな時、「今日はもう、気分転換しよう」と全てをストップさせて、自然散策に出かけたり、自分の好きなことに没頭にしてみたりすること。それが驚くほど効果的なリフレッシュとなって、意外なほど元気を取り戻せた、というようなこと。

いやいや、浅はかな私の体験談では計り知れない深さがあるのだと思うのですが…。少なくとも私は、その時の出来事やその時の自分の気持ちを思い出して、きゅーっと胸が締め付けられました。

うーん、伝えたいことをどう伝えたら良いのか分からなくて、気づいたらまた何が言いたいのかわからない文書になってしまいました(苦笑)。(←カンゲキ通信にはありがちなパターン)

東次郎師が手にされていた扇も、素晴らしいものでした。銀地に雪山と藪椿(ヤブツバキ)が描かれている意匠。…素敵過ぎて震える…!

この小舞を拝見できたことは、私の一生の財産になる。本気でそう感じました。


* * *

2年ぶりのハゲマス会でしたが、清々しい感動に包まれて家路につくことができました。


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